アントワーヌ ド サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupéry
1900年6月29日リヨンに生れ、1944年7月31日マルセイユ沖で飛行機墜落事故で死亡
作家、飛行士・探訪記者
日本では『星の王子様』の作者として広く知られています。しかし彼が6年間の少年時代をルマンで過
ごし、発明されて間がない自動車や飛行機と身近かに接し、将来の夢を膨らませた所がルマンだった
ことを知る人は少ないでしょう。
L'enfance de Saint-Exupéry サン=テグジュペリの少年時代(2019年12月4日刊行)の作者
Thierry Dehayes ティエリー ドアイエ 氏の記事がサルト県議会 会報紙5/6月号にありました。

”お願い、羊の絵を描いてよ。”のセリフで有名な(星の王子様)の作者アントワーヌ ド
サン=テグジュペリは1909年から1915年の6年間の少年期をサルト県で過ごした。
ルマン市のサントクロワ中学校に通い、私たちの県で人格の一部を育んだ。
”全ての大人は、はじめは皆、子供だったのに、ほとんどの大人はそれを忘れている”
と星の王子様の中に書いている。「彼自身は忘れていない…。実際、飛行士でもあり
作家であった彼は、12歳でもあり50歳でもあった。」とサルト県在住の作家、ティエリー
ドアイエ氏は語る。
子供の頃は、とても真面目で、献身的で約束を守ることを良しとしていた。反面、大人になった
彼は、ニューヨーク滞在中に、高層ビルの屋上から紙飛行機を投げて遊ぶこともあった!
9〜15歳まで、20世紀の偉大なフランス人作家はルマン市のサントクロワ中学校に在学し、1870年
からサルト県に住んでいる祖父のフェルナンの家から幾つかの通りを隔てた家に母と弟と住んでいた。
サントクロワ中学校には、アントワーヌの成績表が保管されている。「劣等生だったので、退学させ
られたと言う説があるが、全く間違いだ。」とティエリー ドアイエ氏は強調する。その代わり、数学や
地理や歴史の点は悪く、非常に不器用な少年だったのは知られている。しかしフランス語とラテン語は
得意で、悪い生徒だとはみなされていなかった。
Hunaudières ユノディエールへの巡礼
アントワーヌ ド サン=テグジュペリの作品の一部はサルト県にルーツがある。彼の少年時代は
星の王子様の中に生きている。王子は、彼自身と15歳で亡くなった弟のフランソワをミックスした
ような少年だし、祖父のフェルナンは地理学者に似ているし、大戦で亡くなった叔父のロジェは、
探検家として描かれている。
アントワーヌは、ルマンで飛行機と自動車に熱中した。アントワーヌ少年は、ボレ自動車工場から
800mのところに住み、発明されるものに注目していた。彼は、ライト兄弟のテスト飛行は見ていない
が、フライヤーが飛行したユノディエールを
Jean-Marie Lelièvre ジャンマリー ルリエブルとしばしば
訪れた。
人生を通して、ルマンとサルト県にノスタルジーを持ち続けた。
「行動の人であったが、いつも過ぎ去ったことを回顧した。」とティエリー ドアイエ氏は語る。
彼がまだ17歳の時、こんなことを書いた。”ルマンと全ての昔の出来事をありありと思い出す。”
「アン県のサン モーリス ド レマン城もルマンも彼にとって郷愁の地なのだ。」
ライト兄弟のテスト飛行;ライト兄弟の飛行機、フライヤーが1908年8月8日ルマン上空を飛行する。
ライト兄弟は彼らの発明品を売るために、飛行デモンストレーションと3名のパイロット育成を条件に
フランスの航空会社と契約した。レオン ボレがウイルバーを説得し1908年6月15日にルマンに
フライヤーを運ばせ、ボレのところに収容した。

フライヤーIIIのレプリカがジャコバン広場に展示されました。2019年6月
Léon Bollée レオン ボレ;2015年1月19日自動車産業に貢献したボレー家の人々の記事を参照ください。
Jean-Marie Lelièvre ジャンマリー ルリエ-ブル;1900年7月27日-1976年4月11日
祖父が創設した保険会社の社長 1931-1966
ACO(24hレースの主催)1937年から理事を務め、 1951年-1973年 まで会長を務めた。
ルマン市のガイドブックから
プランタジェネット朝の始祖ジョフォア5世
ジョフォアとは、プランタジョネとは、いったい誰なのか。
2013年にルマン市では、ジョフォア プランタジョネの生誕900年を祝った。メンヌ伯爵邸(Palais des comptes du Maine) とサンジュリアン大聖堂がことの始まりとなる。
1109年、フランス西部の伯爵後継者の二人で、メンヌ伯爵夫人エランブルグとアンジュー伯フルク5世の挙式が行われた。
1113年、8月24日にジョフォアが誕生した。大聖堂で洗礼を受けたジョフォアの両親が、大聖堂を神聖化したことでルマンとプランタジョネは緻密な繋がり持つことになった。
1126年、母親の死後、ジョフォアはメンヌ伯となり、1129年に父親がジェルザレム王国に即位するとアンジューとツールが彼に与えられメンヌ伯爵邸(Palais des comptes du MaineまたはPalais royal Plantagenêt )現在のルマン市役所を本宅とした。プランタジョネというのは、ルマンの荒野で狩猟を終えたジョフォアの帽子には常にエニシダ(genêts)の枝が挿し入れてあったため、街を通り抜ける彼につけたあだ名であった。波乱に富んだヨーロッパ諸国建設の核心でルマンのエニシダ(genêts)は、歴史に語られ、歴史的な家柄のシンボルとなった。
プランタジョネは名門の家系となり、アンジュー家とメンヌ家の結婚によって、プランタジョネ王朝と呼ばれる広大な領地を築いた。
余談ですが、
徳島県鳴門市鳴門町にある大塚国際美術館にプランタジェネット朝の始祖であるジョフォア5世を
描いたエマイユシャンルベ(七宝焼の一種)の陶板レプリカが展示されているのをご存知ですか?
どうかすれば、ルマン市民も「ジョフォアとは、プランタジョネとは、いったい誰なのか。」知ら
ないのに美術館がジョフォア5世を選ばれた理由を知りたいと思いました。

〒772-0053
徳島県鳴門市鳴門町 鳴門公園内
Tel:088-687-3737 Fax:088-687-1117
L’émail Plantagenêt a quitté Le Mans pour rejoindre Le Louvre Abu Dhabi où il était exposé depuis le 19 février 2020. L’émail Plantagenêt est revenu le 3 novembre au musée Jean-Claude-Boulard – Carré Plantagenêt, au Mans.
Quand on dit plaque émaillée au grand public, ça n'évoque pas forcément une œuvre estimée à plusieurs millions d'euros. Et pourtant, c'est le cas pour l'Email Plantagenêt. C'est un joyau de l'art roman selon les responsables du musée du Mans. C'est même le plus grand objet de ce type à avoir été conservé du Moyen-Âge occidental. Il s'agit d'une grande plaque de cuivre qui ornait le tombeau de Geoffroy le Bel dans la cathédrale du Mans. Une pièce unique qui vient de quitter Le Mans pour le Louvre Abu Dhabi, aux Emirats arabes unis. L’exposition va durer trois mois et l'œuvre doit revenir au Mans début juin.
Le Covid-19 a prolongé son voyage au Louvre Abu Dhabi, où il était exposé depuis le 19 février 2020. L’émail Plantagenêt est revenu le 3 novembre au musée Jean-Claude-Boulard – Carré Plantagenêt, au Mans.
Une exposition fermée puis prolongéeL’émail représentant Geoffroy de Plantagenêt devait être exposé au Louvre Abu Dhabi du 19 février au 30 mai. Il aurait dû retrouver sa vitrine du musée Jean-Claude-Boulard – Carré Plantagenêt en juin. Il est finalement resté quelques mois de plus aux Émirats arabes unis en raison de la pandémie de Covid-19.
Confinement oblige, le Louvre Abu Dhabi a en effet fermé ses portes au public quelques semaines. Pour la réouverture, les musées prêteurs ont accepté que l’exposition se poursuive. Elle a donc été prolongée jusqu’au 18 octobre 2020.
記事の中で、気になる部分があったので、サイトでもう少し調べてみました。
九州国立博物館には
1595年頃のヨーロッパ製で単体で描かれた最初の日本地図が展示されています。ジョアキムたちが
製作した地図は、きっと最初の
実測地図なのでしょう。
また、その地図製作は中国と沖縄列島だけだったのか、日本列島も入っていたのか少し曖昧です。
資料をさがしているうちに、沖縄県の土地企画設計会社のサイトに
測量の歴史と題されたページがあり、
興味深い記事です。以下はその記事の一部を抜粋したものです。
…「琉球国之図」が作成されたのは、1796年。日本初の測量に基づく地図を作った伊能忠敬が第一次の
調査を始める4年前のことです。…
…琉球国での測量は、1740年代後半に始まったと見られ、伊能忠敬の60年も前だったことになります。
それに大きな役割を果たしたのは、琉球国の宰相、蔡温(1682-1761)で、1700年代初めの中国
には、西洋の技術がつたえられていました。蔡温は、その最新技術を琉球へ持ち帰り器具を簡素化して
持ち運びしやすくするなど琉球独特のものにアレンジしました。…
…日本初の実測地図は伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」また
「伊能図」と称され、弟子たちが意思を引き継ぎ完成させたのは没後の1821年でした。…
フランス人イエズス会士が中国人に、中国人が琉球人に測量技術伝えたことで、琉球列島の
『琉球国之図』が製作されたのですね。
「2013年11月に琉球国之図と完全復元伊能図フロア展が那覇市の県立武道館で開かれ、「琉球国之図」
が一般初公開された。伊能忠敬の日本地図「伊能図」も同時公開された。」そうで、沖縄の皆様は、
ご周知のことだったわけですが、私はルマン市のメディアテック情報誌の記事からやっと那覇市の
展示会にたどり着きました。沖縄のテレビでジョアキム・ブベの取材番組は放送されたのでしょうか?