ルマン市出身のイエズス会修道士、Joachim BOUVET(ジョアキム・ブベ 1656-1732))について
日仏会館設立90周年記念のイベントの一環で沖縄のテレビ局がルマン市を訪問した2014年12月付け
の記事を日本語教室の生徒がくれましたので、少し調べてみました。
なぜ、沖縄からルマン市へわざわざ取材に来たのか…
記事によると、18世紀に、最初の列島地図がヨーロッパ人によって製作され、ヨーロッパ人の一人が
ルマン出身のイエズス会修道士Joachim BOUVET(ジョアキム・ブベ 1656-1732))だったことが
訪問の動機となった。
ジョアキムはカンペールとブルジュで強靭をとった後、仏王ルイ14世の王室科学アカデミーに所属
している6人の数学者の中から任命され、1685年に東洋へ派遣された。1693年、康熙帝(こうきてい
1654−1722 清の第四代皇帝)からフランス王室図書館に贈呈された40巻の本を持って帰仏した。
同年、中国について書いた2冊の本を出版するなり好評を得て、のちにそれはフランスでの中国趣味
(Chinoiserie)の引き金となった。1699年、康熙帝を改宗させる目的で再び中国へ渡ったが、
”曲礼論争”にぶつかり、改宗ははたせなかったものの、1708年から1715年まで、ジョアキムと
他2名のイエズス会士は、中国地方行政の地図製作の任務を受けた。実地測量中に落馬し、現在の
日本を含む中国全土の実測を断念した。
ジョアキム、彼の歩みは、沖縄の最初の地図製作者ではなくとも、ヨーロッパ地図製作科学技術が
中国とそして日本を知るのに貢献したことを明らかにしている。
(曲礼論争)イエズス会は、中国の習慣や文化を尊重しながらキリスト教を取り込むことで中国における
布教に成功していたが、他の修道会の批判を受け、当時の教皇もイエズス会のやり方に非があると裁定した
ことで、中国でのキリスト教は衰退した。
Page Top↑